「校則作りのあり方を議会で議論し、 決定するのは、政治的なのか?」

◇今回の記事を取り上げたのは、発言が載っている市議の認識がどうも危ういからだ。
教育内容や活動の内容に関する請願であるならば、
政治的介入になる恐れがあるので、不採択は当然だが、
今回の校則作りのあり方は、各学校で校則を作るにあたり、
生徒の校則作りに参加する「土壌」や「雰囲気」を作る請願だ。
なんら、問題ではないはずだ。
この記事を読む限り、自民党系市議は、ミスリードをしている。

◇次に、共産党系市議は、この請願を学校教育への
生徒児童の参画が出来る環境を求めるものだと言っているが、
この記事を見る限り、そのような請願には見えないし、
もし、そういう請願だとすれば、それはそれで、
子どもが学校教育に全面的に参画して良いものではないから、
そこをどう考えているのか、疑問が残る。

◇そして、無会派の市議は、おそらく、
学校教育がなぜ存在しているのかを反省することなく、発言しているように見える。
なぜならば、多様性や個性の発揮は、学校教育の中で実現するべきものではなく、
社会に出て、各人が発揮・実現することだからだ。
社会に出るまでに、各人が社会に参加できるルールを知り、
規律的態度を身につけ、そして、人間関係を構築出来る
調整能力を身につけるのことが重要なことなのだ。
そのために、学校教育はあるのだ。
決して子どもを無所属の自由人にするために、あるのではないし、
子ども個人のためにだけあるのではないのだ。
学校教育は、社会のためにあるといってよい。

◇無会派の市議が、「むしろ変わらなくてはならないのは、
大人である私たちだ。」と言っているが、
まさに、学校教育のことをもう一度理解し直すのは、私たち大人なのだ。
教育を語る大人が、多様性が個性だと美辞麗句に躍らせれてはいけないのだ。

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